自分の生き方と介護のこと

介護の仕事をしていると、仕事のことなんだけど、それは突き詰めて考えると将来の自分がどういう介護を望むのか、自分自身の生き方について考えることに繋がっていることに気づく。
そのことを最近本当に強く強く感じる。

今私が働いている施設での介護のあり方に、日々違和感を感じる。
でも仕事に対しての違和感、社会や会社から求められることと自分がこうしたい、こういう仕事がしたいと思うことの間にはいつも隔たりがあって、それは介護の仕事に限られたことではなくて、社会に出て働き始めてから、ずっと感じてきた違和感で。
仕事をしていると、どんな職場にいてもどんな職種で働いていてもぶつかる壁がある。

一つ目は、職員同士での話し合い・コミュニケーションが公正、公平に行われていないこと。
本音での話し合いがされていないこと。
妨げになっているのは、その職場の人間関係が見えないヒエラルキーに縛られていること。
「先輩と後輩」「古株と新人」「仕事ができる人とできない人」「女性と男性」「社長(または役職者)と部下」
あらゆるヒエラルキーにがんじがらめの人間関係に縛られて、みんな本音が言えないでいる。
上に立つ者は、自分の立場を守ることで精一杯で下の人達の意見を聞くということがない(又は少ない)。
下の者はやっぱり、自分の立場上、上の者に対して物を言うことができない。日々の現場で感じること、もっとこうした方がいいということを意見した時に、村八分(下手したら吊し上げ)にされるかもしれないという恐怖があり意見することができない。それに、現場で働く職員一人一人が勉強したり意見交換したり、そういう話し合いの場がそもそも介護の現場にはない。
少なくとも今私が働いている職場では一部の人達の間でしか、そういう話し合いがされていなくて、それがオープンになっていない。
そのせいで、より良い仕事やサービスのあり方、自分達にとってもやる気の出る働き方など一番大切なことが宙ぶらりんできちんと話し合いがなされないまま、毎日がどんどん過ぎていく。

二つ目は、会社や職場がこうしてください、このように仕事をしてくださいと求めてくることに対して、自分がこういう風に仕事がしたい、こんな仕事がしたいと思うことが一致しないこと。
この二つ目の壁については、自分の我がままと力量不足からくる点もあるので反省すべき点がこれまであったし、自分自身省みる必要があるところはある。

ただ、介護の仕事をしていて今確信を持ってはっきり言えること、それは今自分が働いている施設で近い将来、自分の両親の面倒をみてもらいたいか。それは嫌だということ。
自分自身年老いた時、今の施設には絶対に入りたくないと思う。それは理屈うんぬんでなく、私の正直な気持ち。
自分や、親が介護される側になった時に、こんな介護をされたくないと思うような介護を自分自身がしているということ。それは、施設の方針でありシステムなので、派遣社員として働いている一介護職員にはどうにもできない部分があるけど、やっぱり一人の職員として何か行動を起こせないか、せめて自分が、ここでなら安心して死ぬまでの時間を過ごせると思えるような、自分の親を安心してみてもられるような施設で働きたいし、そういう介護が提供できる介護士になりたい。

介護の仕事を始める時に考えていたこと、それは上に書いたようなことできっと葛藤が出てくるだろうということ。これまで働いてきた中で社会というものがどういう理屈で動いているのか、だんだん理解できてきて、予想できたことでもある。それは、坂口恭平さんや小池龍之介さんなど私が私淑している人達が教えてくれた。社会は一人一人の人間の幸せのためにある場所ではない。「社会」というものは大勢の人間がお互いにコミュニケーションをとるために作り出した、お互いの認識を共有するための「ルール」であり「空間(場所)」である。
人間一人一人、本来自分独自の独特の世界を持っている。その一人一人が対話するために「社会」が作られたと坂口さんは言っていて、その説明は私にとってとてもしっくりくる。

そして、今の国や政府は国民一人一人の幸せについては、はっきり言ってほとんど考えていない。と言えると思う。一握りのお金持ち、権力者、自分と自分自身を取り巻く者達にとって都合のいいことしか考えないし、行動しない。

そしてさらに言うなら、自分自身も今の状況について違和感を覚えながらも、見たくないことめんどくさいことをそのまま放置して、日々それとなく過ごしてしまっている一人だということ。
今の日本社会、自分を取り巻く状況を黙認・放置している一人だということ。

上に挙げた二つの壁は、今は自分の中で「違和感」「おかしくないか?」という程度のことで済んでいる。でもこのまま何もしないでいたら、自分が年老いた時、もしくは自分一人の力では生きていけなくなった時に、自分の身に降りかかってくることだ。
「こんな介護されたくない」という、今の介護の現状が変えられなければ自分が年老いた時、そういう介護しかしてもらえない可能性がある。
自分の働き方、生き方は当たり前のように自分がどのように死んでいくか、に直結している。

自分らしい働き方がしたいし、自然の中でのびのびと生きていきたい、そして自分も他人も人として尊重し尊重されるような生き方、死に方をしたい。
そのために、今どうするべきか。自分自身の行動が問われているし、将来の自分の死活問題なんだ。

そういう問題提起をしている、仲間達や本・漫画・ドラマ・に触れる機会が最近沢山あって、そういうことに触れる度に背中を押される。ただ見ているだけでは何も起こらない。
「こうしたい」という生き方があるなら、自分が行動を起こさないと。
そう言われている気がして、今日ブログを書いている。
だから、このブログは自分自身の自己満足ではなくて、誰かに読んで欲しいし、こういうことを考えている人間がいることを知って欲しいと思っている。
そしてこういうことについて、意見が違う人とも喧嘩ではなく話し合い、意見交換できたらいいなと思う。

自分の生き方と介護のこと」への4件のフィードバック

  1. 「社会とは一人一人を幸せのためにある場ではない、対話の場だ」という視点に驚かされました。ならば、「自分の主張だけでなく、人の話も聴く」という事が上の人も下の人も平等になければいかないですね。

    長い目で見てそれが人を幸せにするのだと思います。

    1. コメントありがとう。いつも会っているはずの夫婦でも、分かり合うということは難しい。
      人間はみんな自分にしかない「宇宙」を持っていて孤独な生き物だから、だからケンカするのではなく、「対話」することが大事だしそれが平和につながっていくのかな。

  2. 色々と悩み考えることはとても大切なことだと思います。私は自分の考えがあるのに、それを我慢するのはよくないことだと思っています。上司であっても悩んでいることもあるはずです。自分が納得していることは、相手にもわかってもらえると思います。それが100パーセント理解してもらえなくても、どこかでわかってもらえる点はあるように思います。働いている環境を少しでもよい方向になるよう前向きに考えるのがよいように思います。

    1. コメントありがとうございます。
      おっしゃる通りですね。
      昔から、自分の思いや考えを面と向かって相手に伝えることが苦手なんです。
      職場だと、意見すると相手の捉え方によっては、働きにくくなることもあるので怖いです。

      ただ、伝えようとする努力は必要ですね。
      対話の土台になる、相手との信頼関係を作っていくことも必要かなと最近思います。
      「対話」も地道な練習が必要ですね。

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