福島の被災地 視察ツアー 2018

こんにちは。

先月5月末に1泊2日で福島の南相馬へ視察・ボランティアへ行ってきました。

私は普段toi toi toiという新座市の有志の団体で活動しているのですが、その活動メンバーとそれぞれの家族や友人など、子供達を含め総勢13名でわいわいとにぎやかな旅でした。

今回の視察では、共産党のボランティアセンターのある南相馬市浪江町、 そして福島第一原発の周辺を主に訪れてきました。

訪れたそれぞれの地域で、清々しい空気、緑の森林、さらさらと透明な水が張られた田んぼなど、のどかな自然に触れることができ、お会いした方々もみな温かく親しみを感じる人達でした。

3.11の地震原発の爆発がなければ、今も自然と人が共生していたであろう土地で、見たこと、聞いたことを報告したいと思います。

 

※南相馬市 小高区 大悲山慈徳寺の杉 樹齢千年の大杉だそうだ。

 

 

視察の内容は主に、

 

* 1日目  *

 

浪江町請戸小学校見学後、南相馬市ボランティアセンターへ

新婦人 南相馬支部の方々との交流

南相馬市小高区の復興公営住宅で聞き取りボランティア

 

* 2日目  *

 

南相馬市浪江町福島第一原発周辺を中心に共産党
渡部市議による現地被災・復興状況の解説&ガイド

 

といったスケジュールでした。

初日は南相馬市にある、共産党のボランティアセンターを目指して朝7時に新座駅を出発。

今回私たちは空気中の放射線量をはかることができる線量計を持っていきました。
スタート地点の我が家から近い新座市内の小学校では、0.049〜0.053マイクロシーベルト(新座市発表)。高速の途中で降りた茨城県の中郷サービスエリアでは、0.069マイクロシーベルト。

福島に入り、富岡ICで降りた辺りから「 0.37 」「 0.5 」「 1.00 」「 4.00 」と線量計の数値が急上昇。
後から地図で確認したところ、今も帰還困難区域に指定されている富岡町、大熊町、双葉町と重なる場所での出来事でした。
そこからは外の景色も、廃墟と化したガソリンスタンドやコンビニ、人気のない街並が続き、車内にも一時緊張感が走りましたが、福島第一原発を過ぎた辺りから数値が一気に下がり、原発から離れるに従い、「 0.56  」「 0.21 」とどんどん下がっていきました。

 

ボランティアセンターに着いた後は、午後から新婦人の方々や、復興公営住宅の聞き取りボランティアで避難当時の話から現在に至るまでいろいろな話を聞きました。

震災後何度も避難先が変わり、あちこち転々としてやっと戻ってこられた方、

避難先から帰ってきた後も、被災者に支給される賠償金がそれぞれ違うなどの状況のせいで隣近所でも腹を割って話すことができないこと、

土中の放射線量は今でもかなり高く、畑で育てている作物など自分達で線量を計りながら、自分の判断で選別して食べていること、

今でも復興からはほど遠く、先の見えない状況の中で暮らしていることを話してくださいました。

 

 

新婦人の方のお話を聞いていて印象的だったのは、辛いことがたくさんあり、今でも大変な状況にも関わらず皆さん元気でエネルギッシュだったことでした。

線量を計りながらも、稲作作りや手染め用の綿の栽培を始めたことなど、先が見えない中でもそれぞれできることを見つけて活動していることや、そして最後にはやはり人間しかいない、人と人との繋がりが大切なのだと話されていたことが心に残りました。

 

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2日目は朝から、日本共産党南相馬市議である渡部寛一さんに、マイクロバスで現地を移動しながら被災状況、復興状況などをお話していただきました。

最初に通ったのは、放射線で汚染された除染土を集めた仮置き場。

黒いビニールに詰められた除染土がいくつもいくつも積み上げられた道の真ん中をバスで通りました。

黒いビニールにより、放射線が外に漏れでないようになっているとのことで、持参した線量計はその時0.1マイクロシーベルトを指していました。

※仮置き場の除染土はこの後県内の中間貯蔵施設に数十年保管した後、最終処分場へ持って行くとのこと。最終処分先は現在もまだ決まっていない。

 

その後浪江町・請戸小学校の子供達が歩いて逃げたという、大平山霊園へ。

高台のようになっているその場所からは 、すぐ向こうに海が見えました。

そして請戸小学校のさびれた建物も遠くに見えました。

私たちは前日に、今はもう廃墟となってしまっている請戸小学校も見学していました。海岸から近い請戸小学校は津波に飲み込まれた学校の1つでした。

校舎の時計は地震発生から55分後の15:40分の辺りで針が止まったままになっていました。

 

※廃墟となった請戸小学校 時計の針が津波が来た時間のまま止まっている

 

つまり、地震発生から学校に津波が押し寄せてくるまでに約50分くらいの時間があったということらしいのですが、その間に学校の適切な避難指示で大平山に逃げたおかげで、教員も含め生徒全員が無事だったそうです。

 

大平山は海から続く平地から、そこだけ数百メートル高くなっていて、辺り一面を見渡すことができました。

震災前には一つの村があったというその場所は、今はもう一面の野原で、キジやいろんな鳥のこえがあちこちから聴こえて、ただただのどかな風景でした。

 

その他、放射線に汚染された廃棄物の処理施設や、いくつかの小学校が一つに統合され仮の学校として運営されている小学校などあちこち案内していただきました。

ガイドしながら渡部市議は、東電と国が処分に困っている汚染水を水で薄めて福島の海に流そうとしていることなど、今でも福島に負担が押し付けられようとしていること、避難指示が一部解除され人々や暮らしも少しずつ戻ってはいるが、復興したとは言えない状況であること、そればかりか今後の見通しの立たない、先行きの見えない中にいることを訴えておられました。

 

その日は津波という大自然の前には、人間はどうすることもできないということ、そして原発が一度大きな事故を起こせば、そこは永遠に人が住めない場所になってしまうこと、そしてその状況の中でも、今もまだ戦いながら生きている人達がいるということを目の当たりにしました。

 

このことことは決して他人事ではなく、自分達の日常はそうした現実と隣り合わせなのだということ、そうした現実を見て見ぬふりはできないということを今回の旅は思い出させてくれました。

 

” 7年経ってもまだこれしか復興していない。こんな状況なんです。

今日は来てくれてありがとう。また来て下さい。”

 

涙ながらにそう言っていた渡部市議の言葉がまだ頭に残っている。

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